先代山形駅
明治34年に開設された山形駅は大正5年に建造された2代目の建物までは木造であったが、
それも老朽化し、昭和42年には鉄筋建築の3代目の建物が誕生した。二階にはステーションデパート、
屋上には遊技場を配し、多くの人を集める人気の建物であった。当時はまだ駅前には十字屋、ニチイ、
ダイエー等の店舗もなく、中小の個人店舗が軒を並べる街並みであったこともあり、ひときわ垢抜けた
建造物として見られていたことであろう。駅前にはロータリー、横には東西を繋ぐ地下通路があり、
加えて道路横断を避けるための連絡地下道も順次追加されていった。地下飲食街もそれにつれ
発展していき、やがて駅の向かいにできるニチイとは地下道を通してつながっていた。
駅舎は使用しながら切り崩した
平成四年に開催される国体(計画時点では67国体/昭和67年の意味/と呼ばれていた)が近づくと
山形の街並みは無秩序と言えるほどあちらこちらで切り崩されていった。「全国からお客さんが来るのに
こんな古い街並みでは恥ずかしい」というのがその主な理由であった。また、政治が狙ったのは街並み
更新による建て替え需要でもたらされる経済効果であったかも知れない。いずれにせよ、見慣れた風景
が次々と、またあっさり消されてゆく様は、山形人の街への愛着心を疑わざるを得ないほどの勢いであった。
このサイトの表題「消えた山形」はこの時の印象が元になっているのである。
駅西側から見た建築中の様子
これらの鉄道の車両もその後姿を消した。
ほぼ同時期の米沢駅(これもその後改築)