この校舎は山城の城趾に建てられたことから、斜面を校地に抱え込んだ特殊な成り立ちになっている。
そのため、校舎各棟の基礎の高さが異なり、校舎間を繋ぐ渡り廊下が階段状にならざるを得なかった。建築としては変化があって面白い造りではある。
段違いの棟を繋ぐ渡り廊下
2階建てが3階の高さに見える
校舎寿命か 経費合理化か
戸沢村の戸沢中学校と校名が重なっていたが、不都合はなかったのだろうか。
鉄道の駅名は重複を避けており、他地と同名の場合には「羽前〜」と呼称するなど
しているが、学校名の場合は同一県内であってもそのような配慮はない。ここ戸沢
に限らず、「西郷」や「中川」など、校名の重なりは他にも見られるようだ。ただ、近年
統合、廃校の動きが盛んになってからは、他と重なっている校名を積極的に残そうと
する例は無く、村山市の戸沢中学校、西郷中学校も(鶴岡市の西郷中学校も)その名を残すことなく消えていったのである。
80年代から90年代始めまでは小規模校についても廃校にせず、建て替えをする例もあった。
(立川町:現 庄内町の大中島小学校など)しかし、景気が冷え、自治体の収支の状態が厳しく
なってくると「少子化に対応して」という理由を付けられ学校の数は激減していった。
学校が成り立たなくなるほどの人数減ならいざ知らず、それぞれ成り立っている学校同士も無理矢理統合、
という例も多くなってきた。「小子化」を口実にしているが、経費削減が第一目的であることは明白であった。
もともと、学校という場は、政治の都合で冷や飯を食わされることが多い。自治体の懐具合が
良いときには老人施設は多大な投資を受け、のちに持て余すような豪華な建物を与えられたりも
するが、一方で学校は雨漏りをしのぎながらの生活であったりする。国の政策で牛乳がだぶつけば
すぐに給食に取り入れられ、米が余ればまた給食にという具合である。その結果、米飯を牛乳で流し
込むという日本文化にはない食事スタイルを形成するに至った。今は世間が騒いでいる、アメリカに
強要された狂牛病の疑いのある牛肉も、ほとぼりが冷めれば学校給食への導入が始まるに違いない。
学校生徒はいくら多人数であろうとも、一票も持たない集団である。一方、老人はいくら高齢であろうとも
それぞれが一票ずつ持っている有権者である。為政者から見てどちらを手厚く扱えば有利なのかは論を待たない。
白鳥城趾に建つことをことさら強調する門標
城は再び滅びた
白鳥十郎の偉業にあやかる校地の選定であったのであろうが皮肉にも白鳥同様、栄華は永くは続き得なかった。
6校を強引、急速に2校へ統合した市長は、統合完遂後間もなく汚職で逮捕され、その職を去った。
城趾を取り巻く木々の中には、白鳥城と戸沢中の最期双方を見届けたものがあったかもしれない。
平成16年3月廃校