夢学堂

 

 

むがくどう・・・・・「夢学堂」

 

平成3年頃だったと思うが、山形市上町に駄菓子屋、というには本格的過ぎる店が開店した。

店の名前「夢学堂」は店主の名前に由来するものであった。当時30歳代だったと思われる

店主は、店に現行商品だけを並べるだけでは満足せず、首都圏まで足を伸ばし、玩具の問屋

の倉庫を丹念に訪ねるなどして、当時まだ残っていたブリキ玩具のデッドストック(死蔵品)を

仕入れてきては店に並べていた。駄菓子のみならず数十年前の玩具まで適価で購入することが

できる、正に夢のような店だったのである。

 

 

  

上町の一角にあった

 

 

一般の住宅街に開いた小さな店。子供達が徒歩で、自転車で訪ねてくる。

店主は子供の遊び相手であった。そして古い玩具を集めてきては店に並べ、売る。

インド文化への傾倒から、大人の来訪者にはインド音楽の集いなどへの勧めもしていた。

 

  

 

 

 

夢の実現として開いた店、だが理想の日々は長く続いたわけではなかった。

 

 

 

記憶がはっきりしないが平成5年前後に店主の訃報を聞くことになる。

持病の悪化によるものであった。こうなることは店主本人は知っていたのかもしれない。

だからこそ、思い切って夢の店の実現に踏み切ったのであろう。それにしても彼が店主でいられた

時間は短かった。あまりにも短く儚い夢の実現期間であった。

 

 

店主亡きあとは、その母が店を続けることになった。店の庭には地蔵が置かれた。

 

 

  

   

店内の様子

 

 

店主が亡くなったあとは当然のことながら玩具の仕入れは停止し、店主が在庫にしておいた

ものが出払ってしまうと、現行の商品と駄菓子のみの品揃えとなった。それでも子供達には

十分楽しみな場所であることに変わりはなく、店主在りし日と同様に子供が通ってきていた。

 

  

白熱灯の優しい光が店内を包む

 

 

そうして10年ほどの歳月が流れた平成16年、店主の母に体力の限界が訪れた。

膝が痛く、このまま店を続けるのは難しくなったのだという。「四月三十日で閉店」の

張り紙をして「夢学堂」の店じまいが決まったのであった。

 

 

   

 

十円、二十円の品々。百円玉一個あれば様々なものを選べる楽しみが得られた。

 

 

  

古風なラジオやミニテレビは非売品

 

 

  

 

 

  

 

   

 

店の中に流れる空気はあくまでも緩く、今が平成の世であることを忘れさせるような感じであった。

 

 

 

 

店主の夢として生まれた店。子供達の夢もまたここで育まれたであろう。

店主在命間三年、急逝後約十年、夢学堂は夢であり続けた。

 

そして平成十六年春、子供の安心できる居場所がまたひとつ消えていった。

 

 

  

 

夢学堂  平成十六年 四月三十日 閉店

 

 

(topへ戻る)                 (市内その他top)                   (次ページへ)

 

 

 

inserted by FC2 system