高畠町大字竹森にある広大な廃墟。学校跡にも見えるが、そびえ立つ煙突が学校ではないことを
主張する。改めてよくみればそれはかつて一時代を築いた大規模な工場の跡地であった。
国道113号から見える煙突
国道脇に続く建物の数々
伊達氏が治めていた時代から続いていた置賜地域の養蚕業は、上杉鷹山の奨励政策によりさらに活発になった。
明治に入ってもその勢いは衰えず、関連する多くの工場が造られた。その中の一つ、この長谷川製糸工場は、
地元竹森村の大地主、長谷川平内によって明治15年に創業された。訪問時に残っていた建物は大正2年以降
のもので、創業時のものではなかったようだが、それでも充分に産業文化財(近代化遺産)級の歴史を経ていた。
工場棟はその作業内容ごとに建物が分かれ、繭を煮るところから糸繰り、仕上げまでをこなしていた。
棟の間を空けて配置されていたことから採光、通気に配慮して建てられたものであったことがわかる。
明かり取りの窓
各窓に充分陽があたっているのがわかる
バス停後方にあった、男子、女子の寮は既に撤去されその姿を記録することは出来なかった。
寮には棟ごとにそれぞれ、洗心寮、淑徳寮などの名が付けられていたそうで、15畳で10人部屋
とされ、各棟に120人ずつの居住があったようだ。木造2階建てで、図書室等も附属していた。
中庭には雑草のみ
最盛期には700人を越える従業員が溢れていた敷地には、ただ雑草が生い茂るのみとなっていた。ただ一つの人影もなく。
繭の蔵
二つの蔵は共に繭を貯蔵するもので、右の西蔵は大正14年、左の東蔵は昭和2年に建設された。
蔵の高さはかなりある