千歳公園

 

 

初代山形県令になった三島通庸は、氾濫河川敷であった万日河原(現:文翔館)のあたりを

埋め立て地として整備して県庁舎を建設したのち、その隣接地帯を千歳園として確保した。

この大工事に際して住民に多大な労役を課したこともあり、決して歓迎された事業では

なかったようだが、のちの目で見れば、現在の県都の中心地を築く重要な工事であった。

 

 

当初の千歳園は、県庁舎のすぐ東にあったようだが、明治17年に今の薬師堂方面に

移され千歳公園となる。公園の敷地内には明治26年に馬場(競馬場)が作られたが、

のちに市の陸上競技場となり、モンテディオ誕生の際にはそのグラウンドにもなった。

 

 

千歳公園の画像の中で最も多く残されているのは、シンボルであったとも言える

噴水の姿である。電動ポンプもなかった時代の噴水であるから、上流より暗渠を通して

引いた馬見ヶ崎川の水であったようだ。川が近かったためにできた工作であったといえる。

 

  

 

のちにバス交通網が整備されるにあたっては、市内の重要中継地として

山交バス千歳公園営業所が設けられ、「千歳公園行き」が多数発着した。

運転士やガイド(あるいは車掌)の待機所にもなっており、バスの黄金期には

周辺も潤っていたと聞く。しかし、現在の交通・都市事情では千歳公園周辺には

さしたる重要箇所もなく、営業所は単なる待合発着所となってしまっている。

 

護国神社は古くからあったように思われているが、公園整備よりはるか後の

昭和14年の建立である。最もそれ以前にも、戊申・日清・日露戦争の戦没者を

祀る小さな社はあったようだ。公園内に大小の石碑、顕彰碑の類が残っている。

 

 

すっかり影が薄くなってしまった千歳公園であるが、周辺は急速に変わり始めた。

護国神社前の建物が軒並み撤去され、馬見ヶ崎橋の架け替えの噂も聞く。

現代の三島通庸は千歳公園周辺をどのように作り上げるだろうか。

 

千歳公園  明治前期〜現在に至る

 

 

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