山形ハワイドリームランド:続

 

 

 

1966年(昭和41年)頃から徐々に飯田の田園に姿を現し始めた巨大な建物は

黒川紀章デザインの総合レジャーランドだった。茅葺き屋根の並ぶ農村とのギャップは

あまりにも大きく、当時は「何故ここに?」との印象が強烈であっただろう。

 

 

 

建設中

 

 

 

現在の飯田5丁目に当たる場所に聳えていたこの壮大な建物の痕跡は

現地を探しても完全に消滅しており、当時の様子をうかがえる物は何もない。

 

まさにその存在さえ夢であったのではないかとさえ思える「ドリーム」ランドである。

 

 

 

動物園、水族館、観覧車、ゴーカート、ボウリング、温泉・・・

多種多様な施設の中でもなんといっても中心施設はプールであった。

 

 

これがドリームランドの最大の強みであり、同時に冬期には最大の弱点になった。

 

 

 

当時の管理人はこの建造物の冬期の管理には大変苦労していたらしい。

ドーナツ型の建物は、開放的である反面、悪天候には全く弱く、冬の雪の吹き込みへの対策は全く考慮されてはいなかった。

入場料も当時としては高く、(昭和42年当時で250円 教員初任給が21000円ほど:今の2500円程度か)夏以外は稼げなかった。

 

 

  

 

 

大きな円筒は内部に階段、トイレ、更衣室などの設備を納めてある。

 

 

  

 

プールを中心とするドーナツの内側縁は回廊として設計されていたが、わずかな屋根がかかるだけで

事実上は屋外であり降雪の度に除雪をしなければならなかった。それでも凍結すれば滑ってしまい、

回廊としての役には立たなくなる期間も長かったようである。

 

 

    

 

黒川設計事務所では、この建物の冬期対策としてアクリルを使った透明屋根を全面に架ける案も

示したようだが、この広大な上面をアクリルで覆うには莫大な経費がかかる上、

実現したとしてもその内部を冬でも裸で歩ける環境にするには暖房機能が追いつかなかった

であろう。加えて、夏には屋根が災いし、蒸し風呂状態になることは間違いなかった。

冬寒く、夏暑い雪国というものを知らない有名建築家に全てをゆだねた代償は大きかった。

 

当時の新進気鋭建築家であった黒川にとっては、まだ首都圏の仕事は少なく、思い切った表現ができるのは

土地に恵まれた地方都市であった。彼は山形にその場を求め、寒河江市の日東ベスト工場、寒河江市役所など

も手掛けていた。その作品を見た事業主(当時、山形で複数の自動車ディーラー等を経営していた人物とされる)が

レジャーランドの設計を依頼することになった。壮大な実験場所を提供したのである。

 

 

 

 

冬の主な集客を担った温泉設備。現在の飯田温泉の湯である。

 

 

 

 

 

内部がハワイであろうとも、周辺は稲穂のなびく山形市飯田の風景であった。

 

 

 

山形ハワイドリームランド 1967-1971

 

 

 

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