北都観光リフト
昭和37年に蔵王エコーラインが開通すると、途中の刈田駐車場から直接蔵王の噴火口である
「お釜」に到達できるリフトを開設しようとする業者が同時に2つ現れた。
1つは現在も営業を続けている山形交通。もう1つが北都開発であった。
ほぼ同ルートに2つの競合するリフトが計画されたことで、その裏で複雑な事態が生じることとなった。
表面に出たのは山形交通の先行営業開始、北都は申請受理に時間が掛かり、工事の中止命令が出るなど
難航した末の1年遅れでの開業ということであった。大幅な遅れは営業的にも打撃で、北都のリフトには
初めから勝ち目はない状態だった。
裏では常識では考えられないことが起きていたようだ。
一方を優位にするために、もう一方の申請を不適切なものに仕立てる、具体的に言えば
北都のルートを不受理にするために当時の山形営林署長が県境を移動させたというのである。
当時の山形の行政事情は一定年齢以上の人しか知らないわけだが、有り体に言えば県の支配は
県知事ではなく、山形新聞・交通グループが行っていたということ。行政よりも上の立場に立った
新聞社が情報操作や政界工作を行い、県内のあらゆる利権に食い込む活動をしていたのである。
もろくも山形県を支配するグループに敗れ去った北都は、それでも法廷闘争を続け、
最終的には勝利を勝ち取っている。とはいえ、30年がかりの裁判は、北都の営業の復活には
全く役に立つものではなかった。リフトは既に風化し、赤錆た鉄の林になっていた。
現在も見られるリフト跡は、理不尽が堂々とまかり通っていた当時の山形県の政治経済を
象徴するものとして残存している。国は裁判に負けた腹いせとしてか、このリフト跡の撤去を求めて
再び争いを起こしている。(2015.1)
麓側の基地の壁面にペンキで書かれたメッセージには、廃止に追い込まれた悔しさが滲んでいるようだが
よく見ると「裁判」が「栽判」になっているのであった。