山形市民にとっては霞城公園は単なる公園ではない。事あるごとに人はここに集まる。
大手門復元前の東口
東口の改修とともに大手門の復元が行われた 美術館前から公園内を望む
公園内から東口方面を見る 工事完成後の様子
三浦商店前から山形駅方向 公園利用者の買い物場所であった
2000年に解体.撤去
山形駅方面から三浦商店脇に出る道は、裏通りとはいえ県立病院や霞城公園に向かう人など通行人も多かった。
食堂、団子屋、質屋などの店も見られ昭和中期の色合いを濃く残した雰囲気を永く保っていた。
病院跡
画像の病院建造物の院名については、記憶が定かではない。この通りの近辺には県立病院、篠田病院、
二本松会山形病院、至誠堂病院、そして国鉄病院と、病院がひしめいていた。人々が皆、列車やバスで通院
していた頃を思えば駅に程近いところに病院が多いのは当然であったのだろう。移転した県立病院もまた
それまで知る人も少なかった南出羽駅の近くにつくられた。
(T-san様より、篠田病院旧病棟ではないかとの情報あり)
病院跡付近から山形駅方面を望む
三菱シルバーピジョン用の修理工場
三菱はかつて、シルバーピジョンというスクーターを作っていた。富士重工のラビットに次ぐ人気で
広く普及したが、大衆が乗用車を入手できる経済状況になるとスクーター人気は下火になり生産を中止した。
1960年代に建てられたと思われるこの工場は、撮影時にはすでに看板通りの役目を終えて久しい状況だったと
思われる。撮影当時でさえ、シルバーピジョンの現役車両はほぼ消えていた。(富士重工のラビットはまだ見られた。)
注目すべきは工場前に停めてある3台が全て三菱車であること。現在では自動車会社勤務者でも自由に他社の
自家用車を選んでいるが、当時は自社の車を選んで乗ることは当然の義務に近いものがあり、乗用車の生産を終えたはずの
日野自動車の社員駐車場にも、数台のコンテッサ(日野がつくった乗用車、当時でさえ稀少だった)が停めてあったもの
である。このような愛社精神に支えられて数々の自動車会社が右肩上がりの成長を続けていたのだ。
名物どんどん焼き 問題を抱えながら美術館も一新
旧飯塚踏切 80年代 同所 2001年 つきあたりの建物が変わった
徒歩 自転車とも学生の通行者が多かった
霞城公園を望む
2001年8月閉鎖
霞城公園南東端の踏切は、城南踏切とばかり思っていたが、正式にはなぜか旧飯塚踏切というようだ。