農協東金井倉庫

 

 

 

金井小中学校の間を通る大きなカーブ道。

この道の脇にある大きな木造倉庫群は長年この地のシンボルだった。

 

  

 

 

 

 

農協という呼称はかつて広く使われていたが、1992年以降はJAという略称に呼び換えられている。

何故農協ではダメだったのかは諸説有るが、要するに「ダサイ」イメージを一新したかったのだと思う。

 

人間のイメージとは不思議なもので、一般に生活の根源に関わるものほどカッコワルイものとして

見なす傾向がある。食生活に直結する農畜産、漁業、住生活に関わる建築、土木などは若者の

希望職種の上位には来ない。反面、ディスプレイをにらんでキーボードをたたくような職種は

好イメージで受け取られている。果ては人が苦労して生産したものを数字の上でのみやりとり

する先物取引やFXなどの通貨取引で巨万の富を手にするものが現れ、羨望の対象となっている。

 

 

 

 

  

 

 

それでもいつの時代にもダサイといわれる職業に堂々と従事する若者はいて、それぞれの立場からの

メッセージを発している。ここに限らずであるが、農協の青年部ではそれぞれ多彩な絵と言葉を用いて

個性的な看板を掲示している。決してうまいとはいえないながらも勢いのある看板群が通行者の

目を引く。政治的、道徳的なもの、ダジャレ、パクリ、ちょっとエロなど、よく見るとなかなか濃い内容である。

 

  

  

  

 

農産物の集配所は以前は物置の大きなもの程度でも事足りたのであろうが

時代が進むと空調の整った品質保持のできる設備でなければならなくなった。

酒田の山居倉庫のように極力自然の力を利用し、保管条件をよくしたものもあるが

通常の木造倉庫では保管力、品質維持力はたかが知れている。ここの倉庫群も

いつしか時代遅れのものとなっていった。

 

 

  

 

  

 

  

 

  

 

内部は物置然としており、この頃には本来の機能はすでに果たしていなかったものと思われる。

ガラスの割れも散見され、管理も十分ではなくなっていたようだ。

 

 

  

 

倉庫と金井小の間のこの場所は、改修以前の馬見ヶ崎川が須川に合流する付近で

渡し船を必要とするほどの川幅があったとのことである。この桜の位置が乗船場で

あったため、ここを「桜の渡し」と呼んでいたのだと解説文には書いてある。

 

1960年代の区画整理前には、付近には陣場沼、江俣沼など大小5つもの沼が残されており、

いずれも河川の名残であったというが現在でも残るのは南江俣公園のひょうたん池くらいである。

 

 

江俣・陣場・吉野宿・鮨洗と続く地域が古くから豊かな穀倉地帯となっていたのは

この古い流路の馬見ヶ崎川がたびたび氾濫したことにより土壌を肥沃にした

結果であろう。この地に農業用倉庫が建てられたのも、こうした歴史と深く関連

しているものと思われる。何事も理由無くしては成立しないものだ。

 

  

 

 

  

 

歴史を経た木造の建築物は風格を持ちはじめるが、反面劣化が進み維持が困難になる。

西洋の石造りの街並みが数百年を経ても残存しているのに比して日本では街並みが

残りにくいのは残念であるが、狭い国土を有効に使うためにはあながち不利益ともいえない。

 

日本の古い建物は、現物ではなく記憶に残すのが実情に合っているということか。

 

      

 

  

 

跡地にはJAやまがた東金井の小さな建物が建っている。

付近にも一大穀倉地帯であった当時の名残はもう残ってはいない。

 

農協東金井倉庫群      2007年頃撤去

 

 

 

 

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