明治30年に山形衛戌病院として山形城址に開設され、2年後の32年に大手門前に移転
した病院は元々軍用病院としての性格を持つもので、昭和11年には山形陸軍病院と改称された。
戦後は敗戦の影響もあり、国立山形病院となったのち、昭和28年に県立山形病院となる。
10年後の昭和38年には現在の呼称「県立山形中央病院」になって平成13年まで霞城公園前
で県民の医療に貢献してきた。その後は老朽化と狭溢化によって市内青柳に移転した。
病院横 歩道
刑務所だった場所が美術館として転用されたように、病院跡も何かの文化施設や
学校等になるものと思われた。山形駅や市街地から徒歩でも間近な一等地であるから
遊休地にすることは考えられず、最も効果的な活用法が考慮されるものと期待されていた。
病院向かい側に出ていた どんどん焼き屋台
しかし、積極的に有効な活用法は提案されなかった。当時まだ用地が具体化されていなかった
村山地区の養護学校(現:村山特別支援学校)の用地には最適かとも思われたが同校の計画は
著しく遅れ、結局聾学校と校舎を部分共用するような中途半端な形にまとまった。
病院跡地の扱いは宙に浮き、なんと「公園前にある公園」というほぼ無意味に近い転用が
決定する。「県民ふれあい広場」・・・広大な「霞城公園」の前に美術館前庭である「中央公園」
その向かいにさらに一等地を犠牲にしての公園が必要であっただろうか。
病院西側
考えようによっては病院という数多くの死者が出た建物の跡地をそのまま建造物用地に
転用するのがためらわれ、浄化の期間、公園としておいたあと具体的利用案が出た時点で
建設地への転用を行うという長期案なのかも知れない。いずれ真相は明らかになるであろう。
旧山形県立中央病院 平成13年移転