ダイエー元木店
山形ではダイエー進出の昭和47年当時から、ダイエーと山形交通の関係は深く
山交ビルがすなわちスーパーダイエーだったり、スーパー山交ストアがダイエーに
改名したりと県内各地で強力なタッグを組んだ経営を展開していた。
しかし、昭和50年代辺りを境に、山形交通グループは公共交通機関の衰退と
県外資本の圧倒的な勢いに押され、縮小の一途を辿ることとなった。
山形交通株式会社はバス、ハイヤーをそれぞれ分社化し、交通以外の
菓子(不二家と提携)、OA機器(富士ゼロックスと提携)、不動産などの
副業に力を入れ、アサヒビールと組んだビール園なども出店した。
客の姿は?
県外資本と組んだ多角経営は生き残りの手段であったが、斜陽の時代は提携相手の
ダイエーにも訪れた。一時は敵なしといわれたスーパー業界の雄ダイエーも、イトー
ヨーカドーグループ、イオングループなどの隆盛に反比例するように業績が急落、
本社の経営そのものが危機に瀕してしまった。のちに産業再生機構の支援を受け
再建を図ることとなるが、その前に採算率の悪い店舗を次々と閉鎖していった。
隣のポテトはその後ツルハになった
ダイエー元木店は、当時周辺に大きなスーパーもなく営業条件はそう悪くもないと
思われたのだが、現実には周囲の小売店に客を奪われていた。野菜は原田八百屋、
魚はまぐろや、雑貨はポテト、精肉は肉のたかはしなど、ダイエーに入れば一箇所で
済むような買い物を、住民は周囲のそれぞれの店でわざわざ分割してこなしていた。
買い物をする立場からは明らかに周囲の店の方が魅力があったのだろう。
やがてその差が決定的になると2002年10月、元木店はダイエーの看板を下ろし
閉店した。その後同じ建物には、ダイエーのライバルとなっていた肉のたかはしを
中心とした周囲の小売店が入り、「元気市場」として再出発。ダイエー時代とは
見違えるほどの集客を見せ、駐車場はいつも混雑している。「元木市場」と命名せず
「元気」にしたところも成功の一因なのかも知れない。
ダイエー元木店 2002.10閉店