大中島小学校

 

 

今は庄内町となってしまったが、平成17年7月の合併前には、大中島は立川町に属し、

更に遡ること昭和29年の合併時以前は立谷沢村の一部となっていた。合併を重ねるごとに

所属する自治体の中心地は遠くなり、地域は廃れてゆくという典型的な零細農村である。

 

 

立川町であった当時でさえ、役場所在地の狩川からは約25kmも離れていた。これは

山形−東根間に匹敵する距離である。山形の中学生が東根の学校に通うなどということは

考え難い。しかし、立川町は極度に細長い特殊な形をしており、その上中心地が北端に

位置する状態になっているため、中学生になれば義務教育でありながら25kmも先の学校に

通わざるを得ないという状況になるのである。とはいえ、長い間小学校は歩いて通える地元にあった。

 

 

大中島小学校.........今は亡きこの学校は永くこの寒村のシンボルであり、中心部であった。

子供のみでなく、地域の人々全員が学校に関わり、行事を支え、子供たちを育てる。

今は見られなくなったそのような毎日が、この学校では当然のこととして送られていたであろう。

 

 

  

 

増築に増築を重ねたような木造校舎。この学校は元々は隣村の立谷沢村の立谷沢小学校の

分校として発足した。昭和29年10月の昭和の大合併から間もない昭和30年4月、本校から

独立し「大中島小学校」として歩み始めることになった。その時点で増築された部分とそれ以前の

校舎が複雑につなぎ合わせられていることもあるのか、廊下の段差が多く、校舎の窓の高さにも

微妙な差異があったように思える。

 

 

この木造校舎は現存するわけではなく、平成2年には鉄筋校舎に建て替えられてしまっている。

その当時の世の中の景気の好調さが良くも悪くも建て替えを促進したとも言える。なにしろほんの

数える程しか児童のいない学校のこと、現在の基準での判断であれば古い校舎をそのまま使い

続けるか、それでなければ即、廃校ということになったであろう。

 

 

この時は廃校を免れ、異例の新築となった極小規模校であったが、景気が傾き町の財政が

苦しくなるにつれて当然のことのように廃止論議が頭をもたげてきた。地区としては唯一の

文化機関をおいそれと廃されては堪らないという意向もあったと思われるが、財政難には

勝てず、遂に平成12年度末(13年3月末)に大中島小学校は歴史を閉じることとなった。

 

まだ新しい鉄筋の校舎は「自然ふれあい館 森森(もりもり?)」として残されることになったが

子供たちは目の前にある校舎に通うことなく、6km程離れた立谷沢小学校に通学する。

※立谷沢小学校もまた平成20年度をもって廃校となった。

 

余目町との合併により町の中心地までの距離はさらに10kmほどのびている。

市町村合併の先にある道州制がもし導入されることになれば、このように末端地区から

の学校、公民館などの公共施設の引き上げは加速し、効率化の名の下に地域の毛細血管

は細断されていくことになるのは目に見えている。

 

決して豊かといわれなかった時代にはこのような学校を小さな地域に設置、運営していた

のに、豊かといわれる時代になって子供たちは地元の学校に通えなくなってしまう矛盾。

この実状を「時代が進んだ」などと言えるであろうか。このような校舎の存在を許さない

環境がいったい誰のためになっているというのであろうか。

 

大中島小学校 旧校舎 平成2年度 取り壊し・新築(平成12年度廃校)

 

 

 

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